長らく更新をしないままになりました。その間も訪問してくださった皆様、ありがとうございます。
久しぶりの投稿、この日を外してはならないと思い書いてみました。予告も書いておりますが、今回は予告とは無関係に書いてみます。
本日は馬込車両検修場で開催された「都営地下鉄開業50周年記念フェスタ」に来場された皆様、おつかれさまでした。寒さもほどほどの天候に恵まれてよかったです。私は会場へは入らずに、イベント開始前に場内を横切る歩道橋から会場の様子を眺めました。
西馬込駅構内に掲出されていたポスター
撮影会用にかけつけていた他社車両は、京急からは最新系列の1000形、北総からはリース車両以外では最古参となる北総9000形(元住都公団2000形)、京成からは現役最古参3300形のうち、赤電塗装車の姿が見えました。都営は5300形に統一されているなか、機関車の5000形も並んでいました。
50年前の車両は1両もないのですが、開業当時のスタイルで増備された京成3300形や北総7260形で今でも現役であるのは、幼い頃からお世話になった形式だけに嬉しく思います。
京成3300形は今年7月の成田スカイアクセス開通で、入れ替わりに除籍になるのではと思っていたのですが、現役を続けています。反面、京急1000形(初代)が今年の6月に営業運転終了となったのは、転機の訪れを実感しました。現在、京急車で浅草線に直通運転してくるのは、1980年代後半に製造されていた1500形になっています。
1960年の開業当時に揃えられた都の車両は、5000形2両固定8編成の合計16両。今なら8両編成2編成分しかありません。私が初めて浅草線(都営1号線)に乗ったとき(1975年頃)でも最短でも4両編成で、大抵は6両編成でした。ですから、開業当時は2両編成との記述を小学生の頃に鉄道書で読んだときは子どもながらに驚きました。
現在の路線で2両編成であれば驚異でもありますが、開通当時の運転区間は浅草橋~押上~京成高砂~東中山。浅草橋から都心へは未開通、国鉄総武線か都電に乗り継がなければならず、浅草を経由するとはいえ、通勤路線としては不十分な状況からのスタートだったこともあり、2両編成で賄える程度の輸送量でした。
ここでは殊更2両編成を強調していますが、1961年開業の日比谷線もはじめは2両編成でしたし、現在は10両編成の千代田線も開通当時は3両編成(20m車)、昭和40年代までの地下鉄路線のスタートは、そのくらいの編成でよかったところもあったのです。
同じ2両編成でスタートした浅草線と日比谷線ですが、日比谷線のほうは1964年に一足早く全線開通、そして1971年には8両編成化されます。対する浅草線は、東京オリンピック前後は路線の延伸開通がなく、全線開業も日比谷線に遅れること4年の1968年、都営車の8両編成の登場に至っては、1991年と日比谷線よりも20年も遅れてのことでした。開通時期が同じだったこともあって、昔から浅草線と日比谷線を比較してしまいます。
比較ついでに書いてしまいますが、日比谷線3000系も浅草線5000形も引退まで冷房化されることがありませんでしたが、日比谷線3000系は長野電鉄へ譲渡されて現在でも乗車することができます。対する5000形は1両も譲渡されませんでした。保存目的?で馬込車両工場に保管してあった2両の5000形は工場の閉鎖でも移動することなく、現存しないようです。(訓練施設に訓練用にあるとのことです)
結局一般の目に触れる形では残っていない5000形ですが、鉄道の日発行のプリペイドカードに、本日発売された記念乗車券の表紙でも5000形が使われており、5000形ファンとしては嬉しい限りです。
そして、馬込駅で見かけました。現在でも5000形が現役のスタンプ台です。
5000形隣の6000系も前面に青帯のない姿は懐かしいです。
今後もこのまま現役を続けて欲しいと思います。
今回は取りとめもない話で失礼しました。
最近のコメント